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2019-11

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卑弥呼の実像

Htさんから譲って貰った「卑弥呼の実像」フォーラムに行く。二枚貰ったのでMnさんを誘う。
フォーラムの実施場所の江戸東京博物館は、初めてなのでついでに見学。駅でMnさんと会う。
広い展示場に、多くの人が来てるのに驚く。家族連れが多い。
江戸ゾーンから見ていく。
日本橋を渡る。「1603年(慶長8)、全長28間(約51メートル)、幅4間2尺(約8メートル)の日本橋が架けられ、翌年には諸街道の基点と定められた。江戸博では常設展示室入口に、幕末期の日本橋北側半分の14間を、当時と同じケヤキとヒノキを使って実物大で復元。」
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寛永の大名屋敷。「江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平伊予守忠昌(1597~1645)の上屋敷を「伊予殿屋敷指図」(岡山大学池田家文庫所蔵)、「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)等の史料をもとに30分の1の縮尺で復元。」
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寛永の町人地。「江戸初期、日本橋北詰付近の町人地を「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)、「江戸名所図屏風」(出光美術館所蔵)等をもとに30分の1の縮尺で復元。」
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棟割長屋。「棟の前後で部屋を分ける棟割長屋は過密都市江戸の代表的な庶民住宅。この模型は間口2間(約3.9m)、奥行き2間(約3.9m)の規模で、居室部分6畳の広さがある棟割長屋の一部を実物大で復元。家族住まいの部屋では江戸時代のお産の風俗も再現。」
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火消しの出陣。
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神田上水掛樋。Mnさんがこの時代の上水道施設はパリより進んでいたそうだと感心する。
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浅草境内の楊枝屋。楊枝は歯ブラシの代わりもした。歯間ブラシみたいな楊枝がある。
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浮世絵問屋。
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芝居小屋、中村座。「江戸時代、芝居小屋では大名も庶民も日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせた。この模型は代表的な歌舞伎の芝居小屋である中村座の正面部分を、原寸大(間口11間、奥行3間)で復元、芝居小屋がもっとも華やかな装いをみせる毎年11月に行われる顔見世興行を想定して作成。」
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助六の舞台。「江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」の衣裳・大道具・小道具などを、江戸後期の古典的な舞台の上に展示。江戸歌舞伎の伝統は衣裳、大道具、小道具など、その多くが今日まで受け継がれている。」
歌舞伎座で見た助六と同じ。
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太田 道灌。「室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。」
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東京ゾーンに向かう。
朝野新聞社。「「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣(しんらつ)に批評し、人気を博した。現在の銀座4丁目交差点北西角(和光ビルがある場所)に建てられた朝野新聞社屋のファサードを原寸大で復元。銀座通りの夜を照らしたガス灯もあわせて展示。」
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電気館。「浅草六区にあった電気館は、はじめ電気仕掛けの見世物でにぎわい、1903年(明治36)、日本で最初の活動写真の常設館となった。ここでは1914年(大正3)、イタリア映画「アントニーとクレオパトラ」上映の際の様子を10分の1の縮尺で再現。」
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戦前の茶の間。昭和20年代の我が家もこんな感じだった。
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氷式冷蔵庫。我が家にもあった。友達が氷屋で氷を手伝って運んできた。
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風船爆弾。米国にどれだけ被弾したんだろうか。
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占領下の道路標識。
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駆け足で見たが、じっくり見ると面白い。
Mnさんとうどんを一緒する。
講演会場に入る。30分前だったがもう半分以上入っている。最後は満席。400人程度の席だが、申し込みは1000人だったそうだ。卑弥呼は関心が高い。さすがに高齢者ばかり。
Mnさんは事前に卑弥呼について調べてきている。私はぶっつけ本番。

菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)の基調講演。「卑弥呼の時代」。
基礎知識の不足から、講演内容で間違って解釈してるところがあるかもしれない。
邪馬台国。「邪馬台国は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。 中国の史書(『三国志』における「魏志倭人伝では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。邪馬台国の所在地が九州か近畿か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれている。」「倭国の邪馬台国は元々男王が治めていたが、国成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)が女王になることで収まったという。」
邪馬台国を収めた頃の卑弥呼は60~80歳の老女ではなかったか。邪馬台国が九州か大和かについては、考古学者の間では古墳時代の始まりが何時かによって決まるようだ。238年、倭王卑弥呼の時代で、古墳時代がそれに近いと大和説が濃厚になる。「古墳時代とは、日本列島において、古墳とくに前方後円墳の築造が卓越した時代を意味する、考古学上の時期区分である。前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、現在議論が大きく揺れ動いている。今のところ、一般的には、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。」
「この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半から奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が出現し、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれ、4世紀の後葉に河内平野に巨大古墳が約1世紀の間築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。」
邪馬台国九州説①朝鮮半島に近い。(帯方郡)②中国山東半島に近い。③AD57年漢委奴国王印は九州で発見。④漢鏡が多数九州で出土している。⑤魏志倭人伝の地理。⑥日本書紀の記述と衝突しない。
短所。①松浦国、伊都国、奴国は現地調査が出来る。邪馬台国は明確に出来ない。②弥生時代後期中頃以降目だった遺跡と出土がない。③北部九州に初期古墳が認められない。④邪馬台国の具体的な遺跡が無い。
邪馬台国機内説。奈良県桜井市三輪山近くの遺跡を邪馬台国の都に比定する説が、有力とされる。菅谷氏もこの説のようだ。①画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期~古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致する。②初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっている。③列島の60%の土器などの交流物が機内に持ち込まれている。④東大寺山古墳より後漢の年号「中平」(184~190)の銘をもつ鉄刀が出土。⑥建国は三輪山麓。
短所。①弥生時代を通じて漢鏡の輸入品は極めて少ない。②魏志倭人伝との整合性は難点。③記紀での邪馬台国は重複して相容れない。
菅谷氏は最後に、倭国、邪馬台国は桜井市の遺跡(箸墓古墳を中心に多くの古墳がる。)ではないか。と言って基調講演を終わる。
パネルディスカッションは、菅谷氏に加えて、武田佐知子大阪大学大学院文学研究科教授、篠田正浩映画監督。コーディネーターは入谷徳裕奈良県立橿原考古学研究所総括研究員。
武田氏より「卑弥呼の衣服」について説明。
貫頭衣は弥生時代の衣服。1枚の布の真ん中に穴が開き、その穴に頭を入れて腰のあたりを紐などで結んだ服を着ていた。織機の技術より30cm巾の布しか織れない。これをつなぎ合わせた。ワンピース型のスカート。水田稲作の時期を同じにして労働着。
身分の上下を示すのに、衣服で識別したのではないか。白、青、赤は魏志倭人伝で魏よりの贈り物の布の色。卑弥呼の衣装はこの色を使ったのでは。弥生時代の遺跡から出た頭の飾り物から、ガラスのブレスレット、青色を想定。
また男装の卑弥呼も想像した。中国は儒教の国だから、女性が王に納まるのは許せなかったのではないか。従って当初は卑弥呼が女性ということをはっきり言わなかったのでは。魏から認められてから女王を明らかにしたのではと言うことから男装もしたのではと考えた。
篠田監督の「私の卑弥呼」。岩下志麻の卑弥呼。古墳を随所に撮影している。
この後、パネルディスカッションに入る。
篠田監督のつっこみが随所にあり面白かったが、基本知識が不足しており、古墳や遺跡の名前がぽんぽん出てきて充分理解し切れい。
断片的に示すと。
*卑弥呼の死後、国が乱れ、それに対して、中国は大きな圧力を加えた。
*魏より鏡100枚を貰う。しかし鏡は100枚以上一杯出てきている。自国製だろう。
*出雲に銅鐸は多く出ている。大和には銅鐸の全体像が出ない。
*桜井茶臼山古墳より81枚の鏡が出土。纒向遺跡は三輪山の近くであり、三輪山を拝殿したのでは。そこに卑弥呼が居た。×篠田監督:山の神に従ってるのなら、卑弥呼は女王ではない。卑弥呼は山の神とは反対の存在。
*箸墓古墳は奈良県桜井市纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられており3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳である。第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)とされており発掘できない。×篠田監督。発掘を許可すべき。
*アマテラスは卑弥呼説。祭る宗像神社は北九州。
*京都福知山の遺跡。
*菅谷氏箸墓古墳は卑弥呼の暫定の墓。古墳が出来てから70~80年後に埴輪を置いている。  邪馬台国は天皇につながるターニングポイント。
*卑弥呼は異常な死に方。
*古事記、日本書紀は女性器が美しい。
*古墳は邪馬台国と重なる。
*応神天皇から歴史時代。380~390年頃。
後も活発な議論がなされたが、基礎知識無く記録しきれず。
固有名詞のみ列記。
*天武天皇・倭王讃・倭王武・雄略天皇・神功皇后・則天武后・新羅の女王・大友皇子・壬申の乱・松浦・松本清張・福知山・狗奴国・三角縁神獣鏡・崇神天皇・景行天皇・伊勢神宮の鏡etc。
終わってから、Mnさんが喜んでいたので、それで満足。
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