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松山と子規(その1)
マイレージのポイントの期限が迫って来たので、Sさんに旅行の計画をして貰う。Sさんが選んだのは松山。読んでおいてと資料を貰ったが、忙しくて読む暇なし。
松山空港に着いた時に、何故、松山にしたのと聞いたら、怒られてしまった。私の俳句のために選んでくれていた。正岡子規の出身地。
松山空港の牛鬼。(クリックすると拡大)

まずは子規堂に向かう。
「正岡子規の文学仲間であった、正宗寺の住職、仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内内に復元した文学資料館で、内部には子規や親交の深かった夏目漱石らに関係する原稿などの文学資料や写真、各種文献など貴重な資料が展示されている。」
子規堂の正面には、子規の「旅立ち」の銅像がある。「子規が25歳のころに箱根の関所近くで撮った写真をもとに、曽我光四郎(故)氏の古希に併せて平成10年9月19日に建立。阿部誠一氏作。」

「夏目漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称『坊っちゃん列車』の客車もある。」

高浜虚子の句碑。
笹啼が初音になりし頃のこと

子規の勉強部屋。「この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築してもらった勉強部屋で、天井もない粗末なもの。」

漱石の「吾輩は猫である」。

漱石の原稿。

「子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もある。」

子規の描いた絵。食べ物が多い。

子規の日記。筆まめだった。

子規の句。

友人の秋山真之が子規に送った羽根布団の生地。

子規と漱石。

子規最後の写真。

子規門下の作風を八百屋の品にたとえた。

子規の句と絵。

子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子

子規の原稿。

子規の若き頃の写真。

「子規が亡くなった後に遺髪の埋葬が行われ、正岡家のお墓の横に子規の埋髪塔が建立された。」

与謝野晶子の歌碑。

高浜虚子の筆塚。

子規に堪能する。熱心に見たのでSさんも機嫌を直す。
「伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。・・・1880年(明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。・・・大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句の革新運動を開始した。・・・1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。・・・短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。・・・」
(その2に続く)
松山空港に着いた時に、何故、松山にしたのと聞いたら、怒られてしまった。私の俳句のために選んでくれていた。正岡子規の出身地。
松山空港の牛鬼。(クリックすると拡大)

まずは子規堂に向かう。
「正岡子規の文学仲間であった、正宗寺の住職、仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内内に復元した文学資料館で、内部には子規や親交の深かった夏目漱石らに関係する原稿などの文学資料や写真、各種文献など貴重な資料が展示されている。」
子規堂の正面には、子規の「旅立ち」の銅像がある。「子規が25歳のころに箱根の関所近くで撮った写真をもとに、曽我光四郎(故)氏の古希に併せて平成10年9月19日に建立。阿部誠一氏作。」

「夏目漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称『坊っちゃん列車』の客車もある。」

高浜虚子の句碑。
笹啼が初音になりし頃のこと

子規の勉強部屋。「この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築してもらった勉強部屋で、天井もない粗末なもの。」

漱石の「吾輩は猫である」。

漱石の原稿。

「子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もある。」

子規の描いた絵。食べ物が多い。

子規の日記。筆まめだった。

子規の句。

友人の秋山真之が子規に送った羽根布団の生地。

子規と漱石。

子規最後の写真。

子規門下の作風を八百屋の品にたとえた。

子規の句と絵。

子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子

子規の原稿。

子規の若き頃の写真。

「子規が亡くなった後に遺髪の埋葬が行われ、正岡家のお墓の横に子規の埋髪塔が建立された。」

与謝野晶子の歌碑。

高浜虚子の筆塚。

子規に堪能する。熱心に見たのでSさんも機嫌を直す。
「伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。・・・1880年(明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。・・・大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句の革新運動を開始した。・・・1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。・・・短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。・・・」
(その2に続く)
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