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川越
Mdさんの案内で川越散策にSさんと出かける。仙台旅行した時に、Nmさんがコーラスの練習の後にMdさんのところに泊り、翌日川越散策に出かけると聞いて、Sさんと二人で一緒したいと頼んだのが実現。
昨夜は二人で遅くまで語らったらしい。
Mdさんの車で案内して貰う。
まずは氷川神社でお参り。

「541年(欽明天皇2年) 入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。」(クリックすると拡大)

清々しい気持ちになる。「素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命。2組の夫婦神が鎮座していることから古くから縁結びの神として信仰されている。」

あい鯛おみくじを引く。Sさんが引いたら、小吉、まずまず。

ご神木の「夫婦欅」。

人形流し。「人の形をした紙を体の具合の悪い箇所にこすりつけて流すと、悪い部分が治るというおまじない。」

喜多院 に車で向かう。「平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。」「慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。」
山門。「寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。」

慈恵堂。

お参りしてから、中に入り見学。撮影禁止なので中の写真はない。

客殿:「寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。」家光が遊んだか、木馬のおもちゃがある。
書院:「寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。」
庫裏:「寛永15年(1638年)建立。」
御庭が美しい。




慈恵堂と庫裏をつなぐ渡り廊下。

多宝塔。

七福神。

「「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。」

笑ってたり、泣いてたり、怒っていたり、ヒソヒソ話をするものあり。







「どろぼう橋」と言う名前につられて見に行く。「むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。」

ここでHmさんと合流。
蔵造りの町並みに行こうとMdさんが地図を見てたら、地元のおじさんが声をかけてくる。行く方向だからと案内してくれる。ちょっと小うるさいが道を良く知っていてずんずん行く。
鯉のぼりが翻る街並みを抜ける。


蔵造りゾーンに入る。
ここでおじさんは車をここまで移動しておいた方が良いと指示。Nmさんが一緒にいないとはぐれるからと反対したが、強引におじさんは誘導。結局、戻る道がわからないMdさんはおじさんに連れられて車を移動。胡散臭いと思ったが悪い人ではなく親切な人だった。
「明治二六年(1893)三月一七日の出火は、西北の風にあおられて、忽ち西から東へと焼失地域を拡大した。その被害は、「家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼」であった。」

「町の3分の1を焼失した1893年(明治26年)の川越大火で焼け残ったのが江戸期の蔵造り建築であったので、その後、各商家が倣った。かつては200棟を超える蔵造りの町屋が建ち並び、川越商人の財力を示した。高価な黒漆喰をふんだんに用いているのが川越の見世蔵の大きな特徴である。」


ゆっくりみたいのだが、車が多く通り落ち着かないのが残念。




時の鐘「時の鐘は、江戸時代に入って間もない寛永年間(1624~44)、川越城主の酒井忠勝によって建てられました。」

「明治二六年(1893)の川越大火で鐘楼もろとも焼失してしまいました。「時の鐘」の再建については、町当局と町民が一体となって、積極的に取組むこととなり、火災後の整備義捐金として寄付が募られたそうです。そして大火の翌年明治二七年(1894)七月二六日完成。この銅鐘は、全長2.23m、龍頭のながさ40㎝、最大外径82㎝、同内径66㎝、重量731.25kg(195貫)です。」

最後まで付き合ってくれた(と言うかなかなか離れなかった)おじさんとお別れ。
Mdさんが予約してくれた「スペイン亭」。

ここでNzさんと合流。
中はなかなか凝ってる。

パエリアを食べる。


ご主人らしき方が料理の説明をしてくれた。


Nmさんが用事があって帰るので、私と榮Sんもここでお別れ。
川越は来た事が無かったので、Mdさんのお蔭で実現できてよかった。
Sさんと良かったねと語り合う。
昨夜は二人で遅くまで語らったらしい。
Mdさんの車で案内して貰う。
まずは氷川神社でお参り。

「541年(欽明天皇2年) 入間川で夜な夜な光るものがあり、これを氷川神の霊光だと捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。」(クリックすると拡大)

清々しい気持ちになる。「素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命。2組の夫婦神が鎮座していることから古くから縁結びの神として信仰されている。」

あい鯛おみくじを引く。Sさんが引いたら、小吉、まずまず。

ご神木の「夫婦欅」。

人形流し。「人の形をした紙を体の具合の悪い箇所にこすりつけて流すと、悪い部分が治るというおまじない。」

喜多院 に車で向かう。「平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。」「慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。」
山門。「寛永9年(1632年)、天海僧正により建立。喜多院で現存する最古の建物。」

慈恵堂。

お参りしてから、中に入り見学。撮影禁止なので中の写真はない。

客殿:「寛永15年(1638年)建立。「徳川家光誕生の間」がある。」家光が遊んだか、木馬のおもちゃがある。
書院:「寛永16年(1639年)建立。「春日局化粧の間」がある。」
庫裏:「寛永15年(1638年)建立。」
御庭が美しい。




慈恵堂と庫裏をつなぐ渡り廊下。

多宝塔。

七福神。

「「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。」

笑ってたり、泣いてたり、怒っていたり、ヒソヒソ話をするものあり。







「どろぼう橋」と言う名前につられて見に行く。「むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。」

ここでHmさんと合流。
蔵造りの町並みに行こうとMdさんが地図を見てたら、地元のおじさんが声をかけてくる。行く方向だからと案内してくれる。ちょっと小うるさいが道を良く知っていてずんずん行く。
鯉のぼりが翻る街並みを抜ける。


蔵造りゾーンに入る。
ここでおじさんは車をここまで移動しておいた方が良いと指示。Nmさんが一緒にいないとはぐれるからと反対したが、強引におじさんは誘導。結局、戻る道がわからないMdさんはおじさんに連れられて車を移動。胡散臭いと思ったが悪い人ではなく親切な人だった。
「明治二六年(1893)三月一七日の出火は、西北の風にあおられて、忽ち西から東へと焼失地域を拡大した。その被害は、「家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼」であった。」

「町の3分の1を焼失した1893年(明治26年)の川越大火で焼け残ったのが江戸期の蔵造り建築であったので、その後、各商家が倣った。かつては200棟を超える蔵造りの町屋が建ち並び、川越商人の財力を示した。高価な黒漆喰をふんだんに用いているのが川越の見世蔵の大きな特徴である。」


ゆっくりみたいのだが、車が多く通り落ち着かないのが残念。




時の鐘「時の鐘は、江戸時代に入って間もない寛永年間(1624~44)、川越城主の酒井忠勝によって建てられました。」

「明治二六年(1893)の川越大火で鐘楼もろとも焼失してしまいました。「時の鐘」の再建については、町当局と町民が一体となって、積極的に取組むこととなり、火災後の整備義捐金として寄付が募られたそうです。そして大火の翌年明治二七年(1894)七月二六日完成。この銅鐘は、全長2.23m、龍頭のながさ40㎝、最大外径82㎝、同内径66㎝、重量731.25kg(195貫)です。」

最後まで付き合ってくれた(と言うかなかなか離れなかった)おじさんとお別れ。
Mdさんが予約してくれた「スペイン亭」。

ここでNzさんと合流。
中はなかなか凝ってる。

パエリアを食べる。


ご主人らしき方が料理の説明をしてくれた。


Nmさんが用事があって帰るので、私と榮Sんもここでお別れ。
川越は来た事が無かったので、Mdさんのお蔭で実現できてよかった。
Sさんと良かったねと語り合う。
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