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2013-06

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松山と子規(その2)





昼食はうどん屋で。(クリックすると拡大)
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2泊する全日空ホテル。早い時間だったがチェックイン出来る。
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坂の上の雲ミュージアムに向かう。
当時の格好をした案内人。
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「司馬遼太郎氏の代表的長編小説であり、NHKスペシャルドラマとしても2009年から2011年の3年間に渡り放送された「坂の上の雲」。「坂の上の雲」ミュージアムでは、激動の時代を生き抜いた3人の主人公の人生や業績を紹介するだけでなく、小説に込められたメッセージを活かした「新しいまちづくりの拠点」として機能していきます。」「この物語は、日本騎兵を育て上げた秋山好古、日本海軍の戦術を確立した秋山 真之、そして俳句・短歌の革新を成し遂げた正岡子規という、文明開化から日清 ・日露戦争までの約30年間の日本と、明治という時代の礎を築いた3人と、その 時代を生きた人々の姿が生き生きと描かれています。」
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「ミュージアムでは、訪れた人たちが小説「坂の上の雲」をより深く理解できるように、合計1296回にも及んだ産経新聞連載記事の壁面展示や、主人公たちの直筆資料、その他主人公たちの生き様が感じられるような展示が行われています。」
子規と漱石の俳句。
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建物の中は階段、坂が多い。坂の上の雲だから坂が多いのかしらとSさんが言う。
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明治の若々しい荒々しい息吹が伝わって来た。満足。
萬翠荘に向かう。
「萬翠荘は、大正11年(1922年)旧松山藩主の子孫にあたる久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が、別邸として建設したものです。
陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。」
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部屋は美しい。
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「踊り場の大窓に広がる海の風景は、グラデーションを使用した繊細な色彩のステンドグラスで、これまでハワイ製と言われていたが、2010年の愛媛県の調査(奈良文化財研究所に委託)により木内真太郎の制作と判明した。」
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俳句の殿堂があった。「・・・全国およそ800の結社1,000万人の俳人は数々の名句を生みだしていますが、その多くが結社誌や月刊誌などに収録されるものの、結社主宰の名句が一堂に会することはありません。
国重要文化 財萬翠荘では、俳句の殿堂を設け主宰の代表句色紙を展示しています。・・・ 結社主宰の代表100句ともなれば、それぞれに読み応えがあり文学性の高みは多くの俳人の参考になるものです。・・・」
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「童子」が載っている。
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愚陀佛庵と松風会の展示。
「愚陀佛庵は、夏目漱石が英語教師として松山中学校に赴任した際、下宿していた上野家の離れ。正岡子規が療養のために居候し、1階に正岡子規、2階に夏目漱石が住み、52日間共に過ごし、俳句づくりに没頭しました。小説「坊ちゃん」はここで過ごした松山での教師体験を元に生まれました。この「愚陀佛庵」という名前は夏目漱石の自分の俳号「愚陀佛」から名付けたという説と、正岡子規が「愚陀佛がいる庵」と呼称しているところから、正岡子規が名付けたという説があります。」
「松風会は子規直系の日本派俳句結社で、全国にさきがけて、明治27年3月27日に発足しました。」
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「2010年7月12日の記録的な豪雨で、松山城の城山において大規模土砂崩れが発生し「愚陀佛庵」が全壊しました。」
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萬翠荘を振り返りつつ。
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「子規が幼少の頃、外祖父大原観山とこの庭石の上で囲碁を楽しんだと言われる。」
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坊ちゃん電車が行く。
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松山城に向かう。
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「松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が築いた四国最大のお城です。門櫓・塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた日本一の連立式天守を構えた平山城と言われております。」
時間が遅くて中には入れなかった。
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ぐるっと城の周りを回っていたら散策中の地元のおじさんが、観光客が知らない写真撮影スポットを教えてくれた。Sさんと喜んで行ったら確かに素晴らしい。
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遥かに霞んだ先が瀬戸内海。
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松山城二之丸史跡庭園に向かう道を降りる。誰も通ってない静かな道。
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庭園は締まっていた。Sさんが外の出られるかしらと心配したが、向こうからジョガーがやって来てほっとする。
再び坊ちゃん電車。
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Sさんが引き返しても入りたいと言ったお店。ジュースとシャーベット。
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秋山好古・真之兄弟の生誕地。既に資料館は締まっていたが、好古の像は外から見れた。
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ホテルの引き返す途中で、ビルに子規の句が。
松山や秋より高き天守閣  子規
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ホテルに帰って、お風呂に入って汗を流す。夕食はホテル屋上のビアガーデンにする。
周り若い人人ばっかりで、賑やか。Sさんと楽しく麦酒とワインを飲む。Sさんとゆっくり談笑出来て幸せ。
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松山と子規(その1)

マイレージのポイントの期限が迫って来たので、Sさんに旅行の計画をして貰う。Sさんが選んだのは松山。読んでおいてと資料を貰ったが、忙しくて読む暇なし。
松山空港に着いた時に、何故、松山にしたのと聞いたら、怒られてしまった。私の俳句のために選んでくれていた。正岡子規の出身地。
松山空港の牛鬼。(クリックすると拡大)
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まずは子規堂に向かう。
「正岡子規の文学仲間であった、正宗寺の住職、仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳まで過ごした住居を境内内に復元した文学資料館で、内部には子規や親交の深かった夏目漱石らに関係する原稿などの文学資料や写真、各種文献など貴重な資料が展示されている。」
子規堂の正面には、子規の「旅立ち」の銅像がある。「子規が25歳のころに箱根の関所近くで撮った写真をもとに、曽我光四郎(故)氏の古希に併せて平成10年9月19日に建立。阿部誠一氏作。」
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「夏目漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称『坊っちゃん列車』の客車もある。」
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高浜虚子の句碑。
笹啼が初音になりし頃のこと
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子規の勉強部屋。「この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築してもらった勉強部屋で、天井もない粗末なもの。」
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漱石の「吾輩は猫である」。
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漱石の原稿。
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「子規が庭園を眺めつつ、勉学に打ち込んだとされる当時の机もある。」
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子規の描いた絵。食べ物が多い。
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子規の日記。筆まめだった。
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子規の句。
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友人の秋山真之が子規に送った羽根布団の生地。
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子規と漱石。
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子規最後の写真。
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子規門下の作風を八百屋の品にたとえた。
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子規の句と絵。
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子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子
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子規の原稿。
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子規の若き頃の写真。
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「子規が亡くなった後に遺髪の埋葬が行われ、正岡家のお墓の横に子規の埋髪塔が建立された。」
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与謝野晶子の歌碑。
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高浜虚子の筆塚。
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子規に堪能する。熱心に見たのでSさんも機嫌を直す。
「伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に松山藩士正岡常尚と八重の間に長男として生まれた。母は、藩の儒者大原観山の長女。・・・1880年(明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。愛媛一中、共立学校で同級だった秋山真之とは、松山在住時からの友人であり、また共通の友人として勝田主計がいた。東大予備門では夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと同窓。・・・大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句の革新運動を開始した。・・・1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。・・・短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
やがて病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録と、現在まで読まれている。・・・」
(その2に続く)

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201103200159095c1[1]

 

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